お腹が空いている時に食べる、作りたての味噌汁が、近ごろ最高においしく感じます。
以前はそんなこと、なかったんですけどねえ。和食より洋食が好きでした。
ご飯よりパンが好きでした。
焼き魚よりグラタンが好きでした。
お漬物よりもピザ。
納豆よりもハンバーグ。
煮物よりもアップルパイ。
(比べ方が変)
でも最近は、苦手だったものが好きになり、好きだったものは胃が重い…。ふきのとうの苦みが美味しく感じるお年頃です。
最強の組み合わせは、ごはんと味噌汁とししゃもです。
ああ・・・美味しい・・・
声のトーンは低め、しみじみとつぶやく「美味しい…。」
これぞ、わたしの本気の美味しい、です。
決して、テンション高く、声高に「おいしー!!」とはなりません。
テンション高く美味しいと言っている時は、一緒に食べている人がそういうテンションだったから自動的に合わせてしまっているか、 誰かの目を気にして無理しちゃっているか、そんなところです。美味しいを偽装しています。 美味しいの偽装罪があったら、そっこう捕まるでしょう。
とはいえ、低いトーンの本気の「ああ…美味しい…」とつぶやく頻度は、そんなに多くありません。空腹加減と、その時の気分や、時間に余裕があるかどうか…など様々な要素がちょうどいい塩梅に混ざり合った時に、心底の美味しいが感じられる気がします。
そんなたまの“心底美味しい”が訪れた時に、何故だか頭に浮かんでくるシーンがあるんですよ。
それは、今から約25年前のテレビ番組の…「進め!電波少年」の大人気コーナー、「ヒッチハイクで世界一周の旅」のシーンです。
わたしはあの番組が大好きでした。初代ヒッチハイク芸人…そう、猿岩石のお二人が、ヒッチハイクをしながら世界を一周するんですね。 現地で働きながらお金を稼ぎ、極貧状態でどうにかこうにか日本に戻ってきてゴールできました。ものすごい視聴率だったらしいですね。わたしも当然見ていましたよ。
空腹でぼろっぼろの衣類を身にまとい、ふらふらになりながらゴール地点に着いた先には、たくさん
の御馳走が並んでいました。
そしてすぐさま、有吉さんは、真っ先に・・・確か、おにぎりだったと思いますが、それを手に取り、頬張りました…。 この時の。この時の、有吉さんの表情なんです。
有吉さんは、本当の、本当の、本当に、心の底から「美味しい」という顔をしました。 あまりのおいしさに目玉が飛び出していました。 西川きよしさんもびっくりの飛び出し方です。目玉飛び出し選手権第一位です。
あの顔は、どこからどう見ても、演技ではない…。ヤラセだとか何だかんだと言われたこともありましたが、あの表情は確かに本当。
どのくらいの美味しさなんですか?
有吉さんの『美味しい』が頭に浮かぶとき、ぼんやりと思う事があります。それは、自分の今感じている『美味しい』が、あの時の有吉さんの『美味しい』とは違うんだろうなあ…っていうこと。
有吉さんの『美味しい』は、その前の苦労があったからこそ。空腹、野宿、外国語、過酷なバイト。
わたしの『美味しい』とはわけが違います。
まあ、美味しさは、人と比べるもんじゃないけども…でも、あれほどの『美味しい』をわたしは感じた事がないな、と思ってしまうのです。
あれほどの『美味しい』って、いったいどれだけの『美味しい』なんだろうか…。 猛烈な空腹感、疲労感…様々な体験をしなければ味わえないのだろうな。
実はわたしは、ようやく今、食事をしみじみと「美味しい」と感じるようになりましたが、それまでは、どれだけ周りの人が、その食べ物の美味しさに感激していても、わたしは「うん…。美味しいね。うん。」くらいの感想しか出てこなかったんです。
「美月さんは、ご飯を美味しそうに食べないね。」と 昔、職場でお弁当を食べていた時に、先輩から言われたことがありました。
確かに、美味しいっていう感動がないんだからそりゃそうなりますよね。味の好みはあれど、食べ物の美味しさに感動するという経験がゼロでした。
なので今、しみじみと「ああ…美味しい…」と感じられる事が嬉しいのもあって、有吉さんのあの美味しいの美味しさってどのくらいなんだろう?なんて興味がわくのかもしれません。
心底『美味しい』と感じるには
猿岩石のお二人は、ヒッチハイクで地獄のような辛さを体験したので、ごはんが最強に美味しいという天国を経験できたのでしょうね…。
地獄が地獄であるほどに、天国は最高に天国なんだなあと。光と陰はセットと言いますが、こういうことなんでしょうね。
今の季節、仕事をして、たくさん汗をかいて家に帰ってきた後に浴びるシャワーったら。最高!!最高、最高、最高!! です。
一日中、エアコンが効いた部屋にいたら、涼しくて快適だけど、あの最高!は味わえないですねえ。 あの最高!は、暑い暑いと汗をかいて体がベトベトする体験があってこそ、です。
影という嫌な、不快なものを排除しようとして、光ばかりを追い求めてしまうけれど。影があるから光は輝くんですね。影がなければ、光らないのですよねえ。
長所は、短所がなかったら、そもそも『長所』ではないですよね。
短所という影があるから、長所が光になり、輝くんですね。
だから短所を嫌って排除しようとしたり無視したら、結局、長所も排除したり無視することになるんじゃないの…? だから、自分にはダメなところばっかりで、良いところなんてひとつもありません!って思ってしまうんじゃないかしら。
短所は嫌うものじゃなくて、あって当然。あってありがとう。おかげで長所が光りますわよ、あはは、うふふ、おほほほほ♪ …なんだよね。
そうだなあ。わたし自身、自分の嫌いな所、他人の嫌いな所…影をどうにか排除したくって、いつだって影ばっかりをじーーーーーーっと監視して、睨みつけて、嫌って、無視して、どこかに追い払おうとしていたから、光があるって感じた事がなかったし、そもそも、見ようなんて意識したことがなかったな。自分の事も、周りの人の事も…。
影があるから、光が輝くのだと分かったなら、影ばっかりを監視していないで、排除しようとしないで、そこにあって良しとして、意識して、光に目を向けるってことをしていけば…。
光と影、どちらも平等に、どちらもそこにあっていい。それでいいって、自分をそのまま受け入れられるようになるのじゃないかしら。そうしたら、だんだんと楽に生きられるようになるだろうな。
ごはんに味噌汁に焼きシシャモ。もぐもぐ頂きながら、光と影がセットってこういう事なのねえ、と感じたある日の休日なのでした。